フリージア


 気付くとそこは香りの海だった。
 ……と書いてみれば見栄えは華やかだったりするのかもしれないけれど、私の目の前にあるのは残念ながらそんな良いものではなかった。無惨に横たわった無機質なボトルから、無色透明の液体がじんわりと広がっていく。こういう時は「海」というより「溜まり」とか書いたりするんだろうか、もし順調に蒸発していれば何日分になったんだろう、などと思考を飛ばしながら、春の香りにしては主張の強すぎるそれを雑巾で拭いた。めずらしく大規模に掃除をして、普段は置かない芳香剤を置いた途端にこれだ。こうなると自制心よりも投げやりな気持ちが勝つので、手にまとわりついた匂いを洗い流してから、スイカバーの箱を乱暴に開けた。

 


 連休の間は、ほとんど家にいた。たまに日用品や食料品を買いに出るくらい。昼過ぎまでぼーっとして、お笑いの配信ライブを観る。そこであるコンビにはまって、白黒1ページのインタビューのためにAmazonで雑誌を買って、読んで、またライブ配信をみて、それからずっと考え事をしていた。

 つくづく思うけれど、暇は怖い。ああでもないこうでもないと言葉を選んでは未送信ボックスに切れ端だけを放り投げる夜の中で、私はおおよそ実像とはかけ離れた彼らの虚像をでかでかと作り上げてしまったようだった。厄介なのは、切れ端を繋いでいる私の情念があまりに醜くて粘着質なことである。どうやら、自分のコンプレックスやら過去の失敗やらを重ね合わせてしまっているらしい。他人に余計なものを背負わせようとするのは良くない兆候だなあと思いながらも、ちらりとのぞく小さくて決定的な「ずれ」と、「正しさ」に対しての強いこだわりに、勝手にシンパシーを抱いてしまう。結局のところ、彼らのネタが好きな理由はそこにあるのだけれど、それを見える形にするのは少し憚られた。もしこの仮説が事実と近いなら、それが誰かにとっては鋭利な刃物になりうるような気がしたからだ。もう少し時間を置いて柔らかくしてから、改めて彼らの素敵なところを沢山語りたいと思う。

 こんな調子なので、「正しさ」とか「普通」とか、そういう曖昧なものの形を気にするようになったのっていつだったかな、とか、そこからずれていることはなんとなく分かるときの居心地の悪さったらないよね、とか余計なことをつい思い出したりもしていた。多分、私が何か新しい趣味を見つけるときは、すぐそばに解決できない孤独感があって、誰かと通じ合うことを無意識のうちに求めているんじゃないかと思う。だから人と人との関係性にのめりこんでしまうし、自分の解釈を書きたくなるし、それを誰かに伝えたくなる。でもそれをご本人には見られたくないという変な自意識が働いたりする。その根底にあるのは、誰かに受け入れてもらえることへの憧れと、受け入れられないことへの恐怖心かもしれない。正直、人との接し方に難がある部分は今も昔もあるので、普段は気にしていないつもりでも、やっぱり根深いものがあるらしい。でも、というより、だからこそ、感覚だけではなくて一度理論としておこしてあるような詞やネタが好きなんだろうな、という発見があった。「正解」を気にしてしまうからこそ、この解釈が本当に正解かどうか辿っていけるような道筋があるものが好きなのだと思う。……実際のところ、この自己分析が本当に正解なのかどうかは、誰にも分からないことではあるけれど。

 


 スイカバーをしゃくしゃく食べたあと、さっきのことを思い出す。
 随分と湿度も高くなっているのに、重い香りのする芳香剤を選んでしまったところから、すでに結末は決まっていたのではないか。そもそもダイエットするとか言っておきながら、ファミリーパックのアイスを買っているのはなぜか。あと物を壁際に寄せるだけでは大掃除とは言えないのではないか……。誤魔化そうと思えばいくらでも取り繕えるけど、滲み出るものってあるんだろうな、と思いながらキーボードを叩いて、このぐちゃっとした気持ちに、それらしきタイトルをつけてみることにした。