空気階段「anna」(2021.2.14/配信)


 空気階段の第4回単独ライブ「anna」を観ました。
 私はこれまで熱心にお笑いを観ていた訳ではないので、恐らく取りこぼしているポイントも多いと思います。ただ、それらを知らない状態で観ても、とても素晴らしい単独ライブであることにかわりありませんでした。むしろ、「ふたりの人となりを知ったら、これよりもっと色々な味がするんですか?えっそれって贅沢すぎやしませんか?」という気持ちの方が大きいです。
 本当に、観て良かった。

 以下、ネタバレあります。

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 人それぞれ形は違うとしても、その人生に寄り添ってくれるものが1つはあると思う。「anna」には、それらを等しく尊重する優しさが漂っている。

 『27歳』のミュージシャンである久保は、「古沢太郎」に憧れて音楽を始めた。古沢は27歳で死んだ(ことになっている)から、いくら待っても新譜はリリースされない。久保は音源から流れてくる変わらない歌声を聴き続け、買ってもらったジーンズを穿き、幻のようなライブの思い出を手繰り寄せては、憧れを膨らませていったのだろう。古沢は変わらないのに、自分だけが歳を取って変わっていく。自分だけが寄りかかっているような一方通行の感情と、その寂しさを想像してしまった。古沢としての人生を捨てた彼に対して、久保が生きていくことを宣言するのは、誰よりも古沢太郎にそうしてほしかったからなのかもしれないと思う。

 古沢の音楽のように「変わらないもの」もあれば、「自分と共に時間が進んでいくもの」もある。
 とあるラジオとリスナーの十数年間を描いた表題作『anna』。
 ある深夜、遅くまで勉強に励む高校生の島田さんは、偶然とあるラジオを耳にする。「チャールズ宮城のこの時代この国に俺が生きてるからって勝手に勇気もらってんじゃないよラジオ」、通称「勇気ラジオ」。島田さんはその無茶苦茶なトークに最初は驚きながらも、いつしかネタを投稿するほど熱心なリスナーになっていく。翌朝起きられずに遅刻し、ペナルティとして放課後の教室掃除を命じられた島田さんは、校則違反の口髭を理由に毎日掃除をさせられているクラスメイトの山崎くんが「勇気ラジオ」のハガキ職人ヤマザキ春のパンスト祭り」であることを知る。共通の話題で仲を深めていく2人は、好意を自覚しながらもお互いそれを伝えることなく、卒業式の日を最後に疎遠となる。

 舞台は10年後。島田さんは父の喫茶店を(コンセプトは外して)継ぐ、山崎くんはタクシー運転手、とそれぞれ夢を叶えた2人は偶然再会する。描かれていない時間の中でも2人は「勇気ラジオ」を聴き続けていて、10年という時間が生んだ距離があっという間に縮まったのも、きっとそれが大きいのだろう。水曜日の放課後のような素朴で温かい時間を過ごしていたのも束の間、「勇気ラジオ」が最終回を迎えることになる。
 最終回の夜、タクシーの車内で流れる「水曜日よりの使者」からのお便りと、2人の告白。放送に収まりきらない感謝の気持ちと、提供を読み上げるアナウンサーの声、『日曜日よりの使者』。このシーンの無垢な温かさに、思わず泣きそうになってしまった。

 このコントの軸となる、「ラジオ」。コントの中ではあくまで2人の共通言語―2人を繋ぐものとしての役割が強かったけれど、この番組でチャールズ宮城は顔も判らない沢山の人を救っていたんだろうな、というところまで想像してしまう。ラジオで居眠りし、挙句「1時3時は眠いのよ」と開き直るチャールズ宮城は、いわゆる「ダメ人間」だ。それでもこの番組が15年も続いたのは、ラジオという開かれた密閉空間のなかで、取り繕うことなく自分をさらけ出し続けていたからだと思う。時に突き放し、時に寄り添う優しさは、きっと誰かを救っていた。リスナーはそんな彼の「ダメ」な部分をいじり、時々呆れ、時々本気で心配しながら、毎週勇気をもらっていただろう。彼に訪れた春を喜んだだろうし、その季節の終わりを知って、甲斐性のなさを「らしいな」と笑ったかもしれない。変わっていく寂しさと、変わらないものへの安心感。そんな感情を持つことができるのも、この時代この国にお互いが生きていて、同じ時間を共有しているからこそだと思う。
 物語のラストで、「勇気ラジオ」は最終回を迎える。私は好きな番組が終わってしまうという経験をあまりしたことがないけれど、共に歩んできたものの時間が止まり、思い出になっていく切なさは想像しただけでも胸に迫るものがある。チャールズ宮城が「また会えるかもしれない」という楽観的な強がりを言わなかったのも、余計に泣けてしまう。ただ2人にとってはここがまた始まりなのだと思うと、少しだけ救われたような心地になる。そして今あるラジオ、全てのリスナーの方たちが、少し羨ましいなと思った。


 勿論、他のコントも粒揃いで素晴らしい。
 好きだったのは『銀次郎24』。17:23までの60分コースって夕方から何してんだよ、と言いたいけれど、むしろ発電に向いているのかもしれないなと考えはじめたらおかしくてしょうがなかった。あの企業紹介VTRのように、「しょうもない」を真面目で包んだものが好きだ。
 『SD』の緊張と弛緩、『メガトンパンチマンカフェ』の程よいゆるさもいい。心の汚れを洗うために洗濯機に入る男とのやり取りを描く『コインランドリー』の狂気と切実さ。『Q』は、劇中で出てくる「せ、説明……?」という台詞が、観ている側の心情を端的に説明してくれている。
 これらを観ていたからこそ『anna』の物語がひときわ輝いてくる訳だけれど、これらのコントは単に舞台を整えるための仕掛けというわけではない。ひとつひとつ人をきちんと描き、その場にいない人物も想像させるから、その人に実際に会えたような嬉しさがある。どれをとっても本当に面白かった。



 「anna」で描かれる人は、どこか足りなくて情けなくて愛おしい。そして、彼らを取り巻く世界は驚くほど優しい。
 生きていれば、どこかで会える。
 現実で会えなくても、『夢で逢えたら』。
 そんな希望と強がりを含めて、人々の生き方と、その人生に寄り添うものたちを、まるっと肯定してくれているようだ。

 何故そんなに優しいのだろうと考えて、ある言葉がふと浮かぶ。
 これは想像でしかないけれど、それに「救われて」、それを誰かに「伝えたくて」、何よりそれを「言われたい」のではないか。
 そしてそれは、空気階段のコントを観たあとのこの気持ちと、きっと同じである。


 『そんな人生もあるよね !』